surugi237のブログ

神学生/ 伝道師/ 心理セラピスト/呼吸法マスター 自殺願望者、麻薬中毒、精神問題を聖書的に解釈し生きる希望を届けるChristian YouTuber.

私が見たイタリアの教会 彼らのキリスト教会文化、そして霊的な問題

ども イタリア留学の話です。

トリノは本当に綺麗な街で、昔ながらの街並みが綺麗でした。

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歴史を感じさせる市街地には住んでいなくて(高いから) 少し郊外に私は月々350ユーロで住んでいました。(4人共同スペース)

 

ミラノに次ぐイタリア第2の工業都市であり、自動車工業の拠点である。

フィアットの町ですね。あとはサッカーで言うとユベントスが超有名だと思います

 

そこで私はカーデザインの基礎を学び2年間、勉強と信仰生活をともにしていました。

 

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いろんな現地の人と交わるのは私にとってとても刺激的であり、同時にイタリアの良い所と悪いところを同時に見れたことはとても良かったです。

 

イタリアは就職難で若者が殆どが仕事を持っていない、持っていたとして安い給料で

働いていることに気付きました。平均1ヶ月1000ユーロから1500ユーロです。

とても安いですね。

 

クリスチャンコミュニティーにも積極的に交わりましたが、

案外、律法が強いが性的な堕落が多い印象を受けました。

教会では真面目な感じを演出して、外ではやりたい放題な

青年クリスチャンが多かったです。

恋愛がとても自由なので性的にもオープンな国民性

 

カトリックの影響が強いせいか、

イタリアのプロテスタント教会は問題だらけでした。

 

神秘主義

奇跡を強調する教会

法主

ユダヤ教みたいな、禁食、禁酒、異性との関係を厳しく管理しているように見えるが

裏では堕落

博愛主義

愛が全て、貧しい人にお金を与える、ボランティア精神

 

これは全ては悪いことではないが、

人には言えない個人の霊的な問題

(鬱、精神問題、無気力、快楽中毒)

を解決することが難しいでしょう。

なぜなら、霊的な問題を解決するには

博愛主義、律法主義、神秘主義 こういった宗教ではなく

福音しかないからです。

 

神様から離れた問題、

サタン

創世記3章の問題を唯一解決方法は

キリストしかいないため

エスがキリストを強調しない。

イタリアの現地の教会の印象を受けました。

 

これらはいくら説明してもイタリア人はなかなか受け入れたりはしませんでした。

彼らはすでに、

自分の国に対して絶対的な自負、プライド、キリスト教

イタリアから始まったと私によく言っていましたね。

(心の中でそれは昔の話だろう、今はカトリックじゃんと心の中で皮肉)

 

イタリアの負の遺産、違う福音、カトリック そして暗闇文化が深いところで

イタリア人の魂に入り込んで、根、刻印、体質が 

創世記3(自分中心)

6 (ネフィリム

11(バベルの塔、成功中心)

が強い イタリア文化なので、なかなか福音が入りにくいなと感じました。

それを解決するには教育だなと

 

幼い頃から、福音と違う世間の刻印される前に 0歳から福音を刻印させないと

大人になってからは遅いなと感じました。

 

教会が福音を逃すと、地域が堕落し、淫乱、ドラッグ、犯罪、これが

国にまで影響を及ぼすことになります、経済の低迷、教育の質、犯罪国家、生活の質

 

だからこそ教会の役割が大切になります。

 

そういった意味では、ドイツとイタリアはどうしても国としての質が

違うかもしれません。ドイツから始まったルターの宗教改革は今でも神の祝福があるので現在もヨーロッパの中でも裕福な部類に入ります。

これはカトリックプロテスタントかで

大きく国の性質が異なることが過去と現在を通してわかるようになりました。

 

イタリアのキリスト教は宗教というイメージが強いし、

習慣化されているので

福音と宗教の違いをわからない人が多数だと思います

 

マリアが私たちの罪を解決したというデタラメな福音

エスの名前で祈らずマリアの名前で祈る

間違った福音の習慣

- 十字架のアクセサリーを身につけている割合
→ イタリア人の方が高い

- 車に貼ってるキリスト教のシール・お札
→ イタリアでは道に止まってる車の後ろのガラスにキリストのシールをはっていたり、運転席のミラーのところに木で出来た十字架のお守りをぶらさげていたりするのを見かける。

-

イタリアは小〜中学校までは宗教の授業を受けるかどうかの選択は保護者がする。授業内容はキリスト教と、世界に存在する宗教について。傾向的にイスラム教徒の子供は授業を受けないことが多いらしい。高校は学校の種類によって、宗教の学習が義務であったりなかったり。スペインでも小・中と宗教のクラスがあり、高校では選択科目。

- ミサ・教会に行った時の年齢層
イタリアは若者は滅多に見かけない (観光客を除く)

- くしゃみをした時にかける言葉
→ 英語ではくしゃみをした人に "(God) bless you" と言ってあげる。『神のご加護がありますように』という意味だ。イタリアではまだ "Salute (サルーテ=健康)!" しか聞いたことがない

- 神頼みする時・嫌なことが起きた時
→ ありえないー!って時にイタリア人が言う「マンマ・ミーア」は日本でも馴染みがある言葉で直訳すると "私の母"。たまに「もう〜〜最悪〜!

 

なので、イエスキリストを知識として知っている人は多いが、

本当に唯一の神、私の霊的な問題を解決したキリストを掴んでいる人はごく少数ですね

 

イタリアに必要なのは宗教ではありません

福音が必要です。

ただイエスがキリスト この事実が彼らに必要です。

イタリアのためにお祈りしています。

 

 

日本人とキリスト教:なぜ「信仰」に無関心なのか?

日本人の関心は「福音」抜きのキリスト教

周知の通り、現在の世界で最も信徒数の多い宗教はキリスト教である。信徒は約24億人いると推定されており、世界総人口の約32%を占めている計算になる。ところが、日本国内では完全なマイノリティーである。隣の韓国では総人口の約29%がキリスト教徒であるのに対し、日本では総人口の0.8%にすぎない。日本人の99%は、この宗教を信じていないのである。

では、日本人はキリスト教が嫌いなのかというと、決してそういうわけではない。むしろ、キリスト教に関連する文化には日常的に親しんでいると言っていい。子供たちはイエス・キリストという名はもちろん知っているし、学校ではマルチン・ルター、ドストエフスキーマザー・テレサなど、キリスト教に関連するさまざまな人物、歴史、文化について習っている。大人たちはキリスト教の美術や音楽にも関心を持っており、海外旅行に行けば喜んでその土地の大聖堂を見学する。クリスマスというイベントは年齢や性別を問わず定着しており、信徒ではなくても結婚式をキリスト教形式で挙げるカップルは多い。キリスト教文化は、総じて肯定的なイメージで受け取られている。

しかし、それにもかかわらず、ほとんどの日本人はキリスト教の「信仰」については無関心なのだ。その思想や教義をよく知った上で批判的なのではなく、ただ単純に関心がないのである。国内には、宣教師やキリスト教徒によってつくられた学校もたくさんある。ある調査によれば、幼稚園から大学までを含めると、日本人の10人に1人は人生のどこかでキリスト教教育機関に通った経験があるとされている。だが、それでも信徒数は増えていない。日本の数少ないキリスト教徒の内訳は、プロテスタントが約6割、カトリックが約4割とされているが、非信徒である日本人の多くはそれら教派の違いを説明できないし、特に興味もない。日本人の関心は、「福音」抜きのキリスト教なのである。

経済的・軍事的な影響力を持った宣教師

日本にキリスト教が伝えられたのは、1549年のことだ。フランシスコ・ザビエル(1506〜1552)の一行が鹿児島に上陸したのが日本宣教の始まりである。初期の宣教師たちによって日本でも信徒が誕生し、その数は急速に増えていったが、わずか60年ほどでキリスト教信仰は禁止されるようになった。禁教政策は約260年も続き、その期間は拷問や処刑を含む極めて過酷なキリスト教徒迫害が行われたのである。17世紀から19世紀後半にかけてキリスト教が禁止され弾圧されたことについてはさまざまな理由があるが、基本的には、キリスト教が単なる一宗教であるにとどまらず、日本の政治や社会を大きく揺るがす存在になっていったことが最大の理由だろう。

16世紀後半の日本において宣教の主力であったイエズス会は、宣教活動を効率的に行って日本人キリスト教徒の勢力を維持・拡大するために、いわゆる南蛮貿易に深く関与した。彼らの経済活動への関わりは、一部の大名に利益をもたらしただけでなく、軍需物資の調達とも結びつくものであった。宣教師たちは単なる宗教家ではなく、経済的、および軍事的な影響力を持ち、政治的に無視できない存在になっていったのである。

また、16世紀の宣教師の中には、スペイン・ポルトガルの軍隊を呼び寄せて日本を軍事的に制圧することを真面目に検討する者もいた。実際のところ、日本を軍事的に侵略するのは現実的なプランではなかったようだが、当時は武力によって教会や宣教活動を守ろうと主張する宣教師も1人や2人ではなかったのである。日本の為政者たちが、そんなキリスト教徒たちに不信感や警戒感を抱くのも無理はなかった。

そもそも宣教師たちは、仏教を悪魔によって考案された偶像崇拝とみなすなど、日本の既存の宗教文化に極めて不寛容であった。彼らはキリスト教こそが唯一正しい宗教であり、他のものはすべて間違ったもの、邪悪なものであると信じて疑わなかった。一部の宣教師は、日本人キリスト教徒に対して仏教の寺に放火するようそそのかしたり、僧侶たちが洞窟に隠していた大量の仏像を見つけ出して破壊したりもした。これらについては、宣教師自身が書き残した文書からも確認できる。

マーティン・スコセッシ監督によって映画化された遠藤周作の小説『沈黙』からは、迫害されたキリスト教徒が一方的な被害者であるかのような印象を受けるかもしれない。だが、かつてのキリスト教は、他宗教との平和的共存を望んでいたのに一方的に排斥されてしまったというわけではない。21世紀に生きる私たちは、異なる宗教も互いを尊重して仲良くやっていくべきだと考えるものだが、当時の世界ではそのような意識はまだ希薄だったのである。

求められたのは日本を発展させるための「教え」

19世紀後半になって禁教が解かれ、再び日本でキリスト教宣教が可能になると、今度はプロテスタントの宣教師も大勢日本にやって来た。しかし、急激に政治体制を変化させて近代化を急いだ当時の日本で、人々が宣教師から期待したのは、あくまでも外国の知識や言語を教えてもらうことであった。宣教師の側も学問や語学の教育を日本人への布教のきっかけに利用しようとしたので、両者のニーズは一致した。だが、とにかく近代化に焦っていた当時の日本人にとって、キリスト教は国を開化・発展させるための手段に他ならず、それはあくまでも「西洋の文化」「他人の文化」でしかなかった。

かつては、ポルトガル語音訳から「キリシタン」と呼ばれていたその宗教は、19世紀末頃から、Christianityという英語の日本語訳として「キリスト教」と呼ばれるようになった。そして、churchは「教会」、missionは「宣教」、martyrは「殉教者」と訳されるようになった。religionに「宗教」という訳語が当てられ、日本語として定着するようになったのもほぼ同時期である。すなわち、これらいずれの訳語においても「教」の字が採用され、teachingやinstructionといったニュアンスが強調されるようになったのである。こうしたところからも、近現代の日本人が「キリスト教」および「宗教」全般に何を求めたのかが推察できる。

当時の日本の知識人の中には、欧米諸国はキリスト教によって国民の道徳を維持して国を発展させていると考え、日本も彼らに追いつくにはキリスト教を採用するのが得策だと主張する者もいた。日本の有名大学の一つである早稲田大学の創設者・大隈重信(1838〜1922)も、キリスト教を道徳的な教化の手段としては評価したのだが、それでも最終的には「怪談奇談」、つまり単なるフィクションのようなものとしか見なさなかった。当時の日本人が求めたのは、日本を開化し発展させるための現実的な「教え」であり、キリスト教は「道徳」や「教育」など限られた角度からのみ利用される傾向が強かったのである。

ただし、日本人とキリスト教の付き合いは、実はまだかなり短い。すでに述べたように、日本にイエズス会がやって来たのは1549年であるが、わずか60年ほどで禁教時代に入り、それからの約260年間は信仰が厳しく禁じられた。19世紀後半からはプロテスタントロシア正教会も日本に入ってきたが、日露戦争や第2次世界大戦の影響で「西洋の宗教」は再び弾圧された。日本で真の意味での「信教の自由」が保障されるようになったのは、戦後新しい憲法が施行された1947年からのことである。こうしてみると、これまで日本の庶民がキリスト教と接してきた期間は、実質的にはせいぜい150年程度にすぎないとも言える。日本人が落ち着いてキリスト教について考え始めるのは、むしろこれからなのかもしれない。

 

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イタリアで感じたこと、カトリック教会を見て感じたこと

youtu.be

 

イタリアトリノに住むことになった自分

学校の授業に参加しながら、

プロテスタントの教会を探してみるが

なかなか見つからない

ほぼ、全てがカトリック教会だったので

日曜日は、家で一人で礼拝する毎日でした。

 

これではヤバイと思い、日曜日に礼拝をする教会を探すことに

 

当時の日記にはこう書いてあります

 

一人でカトリックのミサに行ってきた。
圧倒的な周囲の雰囲気。じっと座っていると、

空に浮かぶような気分になりそうだ。

しかし、冷静に霊的な目で見ると、

聖書のみ言葉がない。

雰囲気が神秘的に見えるが

キリストのみが弱く、

その代わりにマリアが強調されていた。
そんな現場を見ながら、

サタンの戦略は、利口な感じだった

なぜイタリアで私が霊的な戦いをすべきか...
イタリア宣教の理由を再び発見した

 

ラテン系は感情が豊かだが、

御言葉を落ち着いて聴ける雰囲気ではなかった

 

霊的問題が特に深刻な国

イタリア人を生かしたい気持ちが強くなった

 

そうです、イタリアはカトリックの本拠地なので

プロテスタントとは全然違いました。

(詳しくは動画を見てください)

 

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イタリアの現場を見ながら思い出した

聖書の御言葉がこちら


私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。エペソ6:12

 

 

目に見える問題の前で

自分の弱さと無気力を感じることがあります。

イタリアの国が歴史があり、圧倒されましたが

よく見ると霊的に貧乏だなと

感じることがありました。

もちろんイタリア料理はものすごく美味しいですが、

 

霊的なものは貧乏で

肉的なものは豊かだなと 

 

これって日本にも当てはまりませんか?

 

人間は弱いが、神様が与えられる霊的な力を所有してします。霊的な力を所有すれば、霊的な戦いに勝つことができます。精神的な戦いで勝利するための秘密は何でしょうか?

 

私はこの3つを祈っていました。

 

1.感謝は、最高の力です

多くの人が感謝ではなく、懸念や不満を、肯定的な思考ではなく、否定的な考えをします。しかし、不平や不満、不信仰は自分自身を殺すだけでなく、他の人も大変です。心配、不平、不満、否定的な考えを思い付くたび私に与えられた 御言葉を黙想し、真の感謝を見つけなければいけません。神から与えられた祝福が何なのか黙想するとき、救いの祝福がどのくらいの価値あるのかを認識されます。この時から感謝が自然に回復します。

 

 

2.神の教会に与えられた力を知る必要がある
教会は、単に週に一度の礼拝に行くところがありません。神は神殿である教会を愛し、教会の中の牧師と長老、次世代と信徒を神の願いのために立てられました。教会の中に隠された神の祝福と力を発見した場合、教会の祈りの課題が私の祈りの課題となり、聖徒の使命が私の使命となります。教会の中で、神の計画の意味を発見するとき、神が私の生活の中で神の国が臨む応答をしてくれます。

 

 

3.霊的な戦いを開始する必要があります
イエス・キリストを心の中に受け入れ、私たちはすでに霊的な戦いで勝利しました。しかし、サタンはまだこの世の人が福音を知らないようにだまして邪魔します。神の願いである伝道と宣教のために武装し、祈りで神とのコミュニケーションが必要です。神様が与えられる力を信じて霊的な戦いを始めるとき、

私の人生の目標を回復して私の現場で伝道の門が開かれる答を受けます。

 

福音を味わって、神様と疎通し、伝道の祝福を体験したときに、霊的な力が生じ、霊的な戦いで勝利するようになります。私の生活と現場でみことば黙想と祈りを回復します。

 

本格的な祈りを始めました。

 

一緒にイタリアで信仰生活ができる友達ができるように

 

その思いで イタリアの現地教会を探し訪問し共に礼拝を捧げました。

 

 

すると、そこに日本に興味があるイタリア人クリスチャンと意気投合し、

一緒に礼拝をすることになった訳です。

 

彼の名前はネロでした。

そうです、偶然にも悪名が高いローマ皇帝ネロと同じ名前でした。

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クリスチャンを大量に殺害した人物とまさか同じ名前の人と会うとは

しかもクリスチャン!

ネロの生まれ変わりか?

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この出会いは何か、神様の計画だと思い

彼と福音について熱く語り合いました。

続く

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イタリアへどのようにして導かれたのか 世界宣教への道

youtu.be


 

ども、イタリアに行った話をしたいと思います。

 

 

私はカーデザイナーとして日本の企業で仕事をしていました。

 

ただ会社生活で人間関係に苦しみ、鬱に苦しみ、精神的な病が来ていたところに

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エスキリストを受け入れ、新しく神様の子供として人生を歩んでいました。

 

そこから心の平安が訪れ、仕事もやっと順調に進めることになったのですが、

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最後の最後まで、クリスチャンになる前の、私の偶像(お金、成功、名誉)

 

これは創世記3、6、11の問題がまだまだ

残っていましたが、福音によって

少しずつ癒されるのが実感していましたね

 

 

 

また当時は、使徒の働きを読んで、壮大な世界宣教の夢が私に与えられました。

 

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専門性(職業)を持った宣教師。

 

聖書をよく見たら 手に職を持っている人物が

世界宣教に用いられることを知りました。

 

ヨセフはポテパルの家で総務をしていた。また夢を解くリーダーでもありました。

 

 それでヨセフは主人にことのほか愛され、主人は彼を側近の者とし、その家を管理させ、彼の全財産をヨセフの手にゆだねた。創39:4

 

パウロはテントを作る仕事をしながら宣教していました。

 

自分も同業者であったので、その家に住んでいっしょに仕事をした。彼らの職業は天幕作りであった。使徒の働き18:3

 

このような夢、神様が私に与えた夢を持ちながら、

日本にいる間、信仰生活をしながら仕事に打ち込んでいました。

 

 

ただ私は神様の子供なので口から自然と神様と言うようになり、

(知らず知らずに会社で伝道)

会社の人たち周りから影口でこそこそ嫌味をよく言われるようになっていました。

 

あいつはおかしくなった、距離を置こう。

いわゆる、キリストに狂った宗教人に見えたことでしょう

 

そういう会社での噂が広まる中

ある事件が起きてしまいました。

 

突然のクビ宣言です。

 

私を嫌う人が集まり、

上司に私を会社から追い出すように嘆願したそうです。

 

 

その時、私は気付きました。

伝道ができない理由は私が霊的にもまだまだ未熟、

そして専門性に置いても全てにおいて実力不足

 

これは私に向けて新しい挑戦をする時刻表がきた。

一番低いところから新たに始めなければいけない。

 

  • 霊的summit + 技能summit=文化summit

 

summitという意味は頂上という意味です。

 

聖書に書いてある英雄は全てこのプロセスを歩んでいました。

一番底から霊的、技能頂上に挑戦したこと

 

ダビデも石投げの技術は最高レベルでしたが、

それ以前に霊的にsummitだったわけです。

 

サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油をそそいだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。サムエルは立ち上がってラマへ帰った。

1サムエル16:13

 

 

主の御霊に満たされたダビデが信仰と実力でゴリアテを倒して

世界中にダビデの名が広がりました。

 

これが聖書に書かれている世界福音化です。

 

そのような聖書の話が本当か?どうか?私も確認したいと思い。

 

クビになる直前まで、悩み 祈っていたら

 

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。

イザヤ41:10

 

この み言葉を読み、心が安らぎ、決心が出来て

私は快く会社の要件を受入れ、何も未練もないまま

会社を去りました。

 

クビになったのでさてどうしようかと言う時に、

その時、20代最後だったので

 

世界へ挑戦するラストチャンスだと思っていました。

 

カーデザイナーとしてもう一度チャレンジしようと思い

海外の美術大学、(カーデザイン学部)へ願書を海外のいろんな国に発送した結果

イタリアから奨学金を貰えるらしく、そこに決めたワケです。

 

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当時、お金もあんまりない状態、言葉の問題

向こうには教会もなく信仰生活は

どうすればいいのか全くわからない状態

何もわからない状態のまま 

イタリアトリノへ向かう

飛行機の中で

聖書を開きました。

 

 

18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、

20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

マタイ28:18−20の契約を掴んで

 

 

そうだ!私には全ての権威を持っているキリストが共にいる

 

 

何も恐れる必要がない。

全ての民族に行き、福音を伝えないといけない。

もし、カーデザイナーとして成功しても

私のメインの仕事は宣教師です。

カーデザインは世界宣教の道具です。

私は足りない者ですが 神様が私を伝道と宣教に存分に使ってください。

エスキリストの名前でお祈りします。アーメン

 

 

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私はこのように神様に祈りました。

今でも鮮明に覚えています。

その後、私はどうなったのか・・・・

全て神様が私の祈りを聞いて答えてくださいました。

 

その後、イタリア、イギリス、中国、インドと

世界宣教旅行、人生の旅が始まるわけです。

 

続く

 

 

 

 

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実は私、こういう仕事をしていました。過去の整理、そして未来へ

 

私の過去

 

 

 

それはカーデザイナーでした。

 

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これは私が描いた車の絵です。

 

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またこの様に実物の1:1クレイモデルの制作もしていました。

 

 

かれこれ10年以上のキャリアがありました。

 

 

日本の某車メーカーからキャリアが始まり、

 

 

イタリア、インド、中国で働いた経験があります。

 

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ただ、なぜ私はあまり、カーデザイナーとしての過去を語りたくなかったのか

 

 

苦い思い出が多いからです。

 

 

カーデザイナーは専門性の高い職業でもあり、競争が激しい職業でもありますので

 

 

私も肉食動物並みに戦闘モードで、世界中の猛者と戦ってきた過去がありました。

 

 

ただ過去を振り返ると、失敗の連続でした。

 

 

その当時は失敗だと思っていた経験が

 

 

今となって 世界宣教への素晴らしい土台になったこと

 

 

私のグローバル化、幅広い器を準備できたこと

 

 

全てが神様の恵みとして 感謝に変わりました。

 

 

私も、そろそろ過去を全て曝け出す準備ができたと思うので徐々に

 

 

世界編を公開したいと思います。

 

 

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恥ずかしい

何が異端で何が異端ではないのか

youtu.be

 

 

 

人々は福音を一度も聞かずに無神論者として生きています

 

いろんな人生の問題を通して

答えを探しながら迷いながら 

 

宗教にハマっている人がいます

 

その中でも、教会まで答えを探しに行きますが、

教会の人がその人に人生の答えを示さず

また、迷わせます

 

いろんな教会には行ってみたが、

霊的な焦り、霊的な飢乾きが少しも解決されず、

結局のところ、異端に走ってしまいます

 

これは誰の責任でしょうか?

 

異端の責任ではありません。

なぜなら彼らは答えがないから

答えがあるのに答えを伝えない教会の責任です。

また牧師の責任でもあります。

 

 

聖書の中にある 真理の福音を

教会生徒に確実に教えなければいけません。

 

 

生徒は救われた確信が生まれ、

福音を味わうキリストの証人に導く 

これが教会の役目だと思います。

 

聖書を知らなければ、真理を分別することは難しいです。

 

特に、霊的問題が深刻な生徒は

ただイエスキリストの福音だけが、

彼らの霊的な問題を解決することができます

 

生徒たちが福音で武装できたときにこそ、

異端の教理に対して分別力が与えられ

 

どんな誘惑にも騙されないと思います。

 

異端は 聖書とは全く違う内容を教える ことを指します。

 

パウロは異端の教えを 違うイエス、違う福音 違う霊 と言っています。

 

というわけは、ある人が来て、私たちの宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいはあなたがたが、前に受けたことのない異なった霊を受けたり、受け入れたことのない異なった福音を受けたりするときも、あなたがたはみごとにこらえているからです。2コリント11:4

 

しかし、ここで、神学的異端かどうか区別する必要があるのが、

 

 

プロテスタント教会は教派が違うケースが多いからです

 

各教理の違いを 異見といい、

神学的な主張の違いを 異説といいます。

スタイルの違いで異端ではありません。

ここで明確な線引きが必要なのは

 

 

異端は 最後が違う という意味です。

聖書の言う異端は 始まりから違う、

また、最初から最後まで違うという意味です。

異端は キリスト教の本質から離れているという意味です

 

 

パウロはデタラメを語る使徒が現れるだろうと予言しています。

 

 

13 こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。

14 しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。

2コリ 13−14

 

違う福音とはどういうことでしょうか?

 

 

三位一体の神を否定

キリストが人間として来られることを否定、

エスキリストを通して、私たちの罪を解決し、

救いを与えることを否定

エス意外にも救いはあると主張

エスキリストの再臨は何月何日と決めること

自分がイエスキリストの生まれ変わり

 

こう言った主張は危険な異端です。

 

 

エス受肉を否定したり、イエス・キリストの完全な神性との完全な人性のうちどちらか一方を否定すると異端です

 

 

22 偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否認する者、それが反キリストです。

23 だれでも御子を否認する者は、御父を持たず、御子を告白する者は、御父を持っているのです。
ヨハネ2:22−23

 

1 愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。

2 人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。

3 イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。

ヨハネ4:1−3

 

このようにイエス様は 神様でありながら、完全な人間です。 イエス様は

人間を救うために 罪のない神様であり、十字架で血を流す人間でなければいけません

なので イエスが、神の子であることを否定、御言葉が肉として来られることを否定することは アンチキリスト、異端です。

 

 

救いはイエスキリスト以外にもあることは有り得ません。

 

 

エス以外の名でも救いはあると主張することがあればそれは確実に異端でしょう。

 

エスキリストの再臨について 特別な場所、または時間を特定して主張することは

異端です

 

エスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。
使徒の働き1:7

 

ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

マタイ24:36

 

聖書には イエスの再臨の場所と時間は神様、父だけが知っていると言っています。

なのでその日を特定するために、無理やりに聖書を分析する必要はありません。

しかし、また来られる主を待ち望みながら信じることは生徒の信仰です。

 

今まで多くの

異端は、イエスの再臨の場所、時間を特定し、生徒を煽ってきました。

 

これこそ、悪霊の働きですね。

今まで何回もそんなことがありましたが、

彼らの望みとおりにイエス様は再臨されませんでした。

 

結局全てが嘘だったことがバレています。

 

 

これが間違った終末論なので 

正しい霊的な分別をしましょう

霊的な目で正しい判断をするために 常に霊的な武装をお勧めします。

 

 

42 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。

43 しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかっしょう

44 だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。

 

マタイ24:42−44

 

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