私がローマで感じたこと、イタリア編最終
イタリアIED学校が卒業間近、
私は卒業作品を一生懸命に作業していました。
クラスメイトが14人いてその中で
1つのデザインを選びます。
カーデザインは激しいコンペ(競争)なんで
自分のデザインが選ばれるとフェラーリーとピニンファリナ名門のデザインスタジオ
のインターンシップを受けることができる
特典がありました。
私はそれ目的に
イタリアに渡ったと言っても過言ではないでしょう。
頑張ったのですが、
結果は残念ながら2位に
私は選ばれず、他の人が選ばれました。その瞬間、目の前が真っ黒になりましたね。
神様を恨みました。普通2位ってめちゃくちゃ悔しくないですか?
もし5、6順位なら理解できますが、
私は本当に落ち込みましたね、
今となって自分を振り返ってみると
創世記3、6、11章の問題が強く
自分に残っていたと思います。
神様の願いよりも 自分中心、堕落、成功中心の私
生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。
ガラテヤ2:20
この御言葉を読んで
自分が十字架で死んでいなかったことを
気づかされましたね
自分の失望により、私の愚かさに
クリスチャン、神の子なのに、生活は全然そうではなかったことに気づかされました
だけど、クヨクヨしてはいられないので、
名門デザインセンターではなく
底辺のデザインセンターと面接をして
結局インターンシップを受けることができました
そこでは3Dスタジオで、私が思い描いていた、華麗なデザイナー生活とは程遠い
仕事内容で、スケッチは愚か、ずっとパソコンの前で
3Dモデルの制作
だけしていましたね。地味な作業でした。
OEM メジャーな大企業のデザイナーと 小さな中小企業のデザイナー 待遇も全然違ってました。そこでは月々400ユーロなのでほぼ家賃でなくなってしまいます。
結局3ヶ月、奴隷のように働かされて トリノのインターンは打ち切られ、
また仕事がなくなって、プータローになってしまいました。学生ビザも残りわずかなので、イタリアにずっといたければ、会社で認められて、学生ビザから正社員ビザに変えてもらわなければいけません、
留学生の一番のストレスがビザだと思います。
ビザが切れると帰国しないといけない。
そのプレッシャーは他の人と比べ物に
ならないと思います。
何のためにここまでお金を投資して
学業につぎ込むのか、
それは現地で就職したいからです。
危機感を持ち、祈りました、
このようなことがあった後、パウロは、マケドニア州とアカイア州を通りエルサレムに行こうと決心し、「わたしはそこへ行った後、ローマも見なくてはならない」と言った。使徒の働き19:21
ローマも見なければいけない
この言葉通り、ローマの会社からインターンのオファーが来たのは鳥肌でした
もちろん、私からいろいろアポを取りまくった結果
ローマにある飛行機インテリアデザインスタジオです。
ローマっていう響きがいいので
浮かれていましたが、実際は
もちろんここでも給料は500ユーロでした。
(トホホ)
デザインスタジオはローマの中心地、スペイン広場のすぐなので立地はすごく良いのですが、何せ、家賃が高い、通勤時間を考えても、ローマの中心地からそれほど、離れていない場所を探していくらシェアルームを探しても420ユーロ家賃が限界でした。
8人共同生活、トイレキッチン共同、小さい独立した個人部屋、もう最悪でしたね
ローマは華麗な街なのに、
なぜ俺は家賃を引いて残り80ユーロ
で過ごさないといけないのか涙が出そうになりました。
一生懸命働いて、そこに居る、
ボスとイタリア人同僚3人と仲良く過ごしていましたが、その中にいる
フィレンチェ出身の女の子は感情的な子で
めちゃくちゃ差別されて、まあ苦しかったです。
結局、その女の子からいろいろ嫌がらせを受けましたが、まあメンヘラだったと思うと
怒る気にもならず、彼女のために祈ってあげました。
結局、私はローマに一年いながら韓国人教会に行って礼拝していましたが、
そこも聖徒たちは四六時中喧嘩で、空中分解をしていましたね。結局、ローマにいるのに、イタリア人に伝道せず、韓国人だけの民族意識、ウリナラ精神、自国民のためのコミュニティー 宗教生活による本当の恵の無さに漠然としていました。
なので、結局、私はそれに嫌気をさし
韓国人教会は離れて
私は一人で礼拝を始めた訳ですが、
今でも記憶に残るのは
野外の礼拝です。
一人でMP3イヤホンを付けながらジョギングをよくしていましたね、
(summit Time )
その場所が、アッピア街道です。
偶然にも家から近かったので
雰囲気のある道だなと
後で調べたら、なんと、あのパウロとペテロがローマ皇帝に福音を伝えるために
歩いていた道ではありませんか
(ローマ布教に際し皇帝ネロによる弾圧で追われる身となった聖ペトロが、アッピア街道の中途でイエスの幻影に出会い、「主よ、どこへ行かれるのですか(Domine, quo vadis ?)」と尋ねたところとしても知られる。)
この歴史的な道で、私は黙々とメッセージと賛美をひたすらイヤホンで聞き
祈りながらジョギングをしていました
(人生最高の時間だったと自負しています)
この道の近くには初代教会の墓カタコンベがありました。
ギリシャ語で「イエス・キリスト、神の子、救い主」という信条文の頭文字は、魚を意味し、迫害時代はキリスト教の裏シンボルとして使われました。ΙΧΘΨΣ(イクトゥス)は、イエス・キリスト神の御子、イエスがキリストであるシンボル
家の近くにこういう歴史的遺産があるから、興奮するよりも
全ての出来事に意味がある
なぜ、神様は私をローマに送ったのだろうか?
その意味がこのΙΧΘΨΣ(イクトゥス)にありました
オリジナル福音を回復せよ
と私は神様からのメッセージを
受け取ることができました。
なぜなら、私はこれまで生きた人生の中で一番、
神様に賛美して、祈って、叫んだ
場所がこのアッピア街道だったワケです。
初代教会、ローマから激しい弾圧を受けて 狭いカタコンベで閉じ込められても
「ただイエスがキリスト」の契約を握って
世界福音化を成し遂げたこと
私も同じくこの場所で契約を握る重要な時刻表だったと思います。
結局、ローマの会社から契約が打ち切られ、ビザの期限切れはすぐなので
イタリアから出国しなければいけません。
私が思い描いていた、イタリア宣教、世界宣教、デザインを通して神様に栄光を捧げるそんな綺麗な言葉
が崩れる瞬間でした。悩んで、祈って、
どうしようか迷って、
どうしてもヨーロッパから離れたくない思いで
私の知っている
イギリスにいる宣教師に電話しました、
イギリスの家に住まわせてくださいと、
すると月々の家賃を払ったら来てもいいよということで
荷物をまとめて、イギリスに向かうことになりました。
続く